‘ブログ’ の記事一覧
◎2015年10月05日 ---- ボス ◎
- 死の恐怖
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気が小さい。臆病。心配性。「それが会社経営には大切なのですよ」と褒めてもらえることもあった。経営者になって20年以上、いつも怯えていた。「もし・・・なったらどうしよう?」と心配して眠れない夜がどれだけあったことか。毎日、毎晩心配している。◆さて今度は仕事の話だけではない。私の体調の話。私は気が小さいから健康にもこだわっている。ニュー新橋ビル1階のジューススタンドで毎日700円も出して「野菜ジュース」を飲んでいる。10種類以上の野菜を絞ってジュースにしてくれる。これが不味い!「良薬口に苦し」まさにクスリと思いながら毎日飲んできた。◆万歩計をポッケに入れ、毎日最低1万歩は歩くようにしている。地下鉄を利用するときはエスカレータを使わず階段を歩く。週に1回はゴルフをする。◆入念な人間ドックも受診する。毎年一回、PETと胃カメラによる検査も欠かさない。「心配要りませんよ」と言われるとホッとする。「あと一年は大丈夫ですよ」と言われた感じ。今年は7月にPET検査を、9月2日に胃カメラ検査を受診し「心配要りませんよ」と言われ、ホッとしていた。だが・・・・。◆胃カメラ検査の2週間後、15日頃からノドの調子がおかしい。最初は魚の小骨が刺さったような感じだった。近所の内科で診てもらって「どこも悪くないですよ」と言われ安心していた。そのことはこの欄でも紹介した。しかし、一旦治りかけたように思えたノドの違和感がその後日に日に増してきた。痛みが激しくなった。先週、耳鼻科を受診した。鼻から内視鏡を入れてノドを診てもらった。医者は「ノドの色が変化していますね。恐らく悪性のものではないでしょう。」と言ってクスリを処方してくれた。それから1週間が経った。痛みは一向に引かない。それどころか声がかすれてきた。気が小さい私は「ああ、これは咽頭ガンか?」と不安で眠れない。◆この10年間で二人、私の親しい人が咽頭ガンでなくなった。どちらとも声がかすれてきていた。ツンクさんは声を捨て命を取った。さて私は・・・?◆今日は出社後すぐに神棚に手を合わせた。「どうか私が健康でありますように!咽頭ガンではありませんように!神様お守りください}と真面目な顔でお願いした。◆明日は再度、耳鼻科を受診する。怖い!「恐らく悪性のものではないでしょう。」・・・「恐らく」なんて言わないでくれたら嬉しいのに・・・。... 続きを読む
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◎2015年10月05日 ---- ボス ◎
- かわいい自分には旅をさせよ
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国内47都道府県、行ったことがないところはない。しかもそのすべてで二泊以上した。国外でも20を超える国を巡った。平均的な58歳と比べればかなり多い方だろう。だがそれらの多くは仕事を絡めてのもの。純粋に「旅行」と言えるものは数えるほどしかない。出張のついでに半日間程度の観光を楽しむ余裕は作ってきた。国内出張では美術館巡りを楽しんだし海外出張では必ずジャズバーを覗いてみた。名所旧跡も回った。海外でのゴルフもおそらく30ラウンドはしただろう。楽しい想い出も多い。だが今年からは出張を減らしている。私が出張に行っていては後進が育たない。若い連中に積極的に客先を回ってもらいたい、そんな気持ちから出張を控えるようになった。そのため今年になって私のプライベートでのゴルフのラウンド数は増えたが飛行機や新幹線に乗る機会は減った。◆出張以外では殆ど旅行をしていない。忙しい、カネがない、疲れが溜まっている、予定が立てられない、などと自分に言い訳してきた。いや、それよりも「仕事で出張しているから・・・」という言い訳が多かった。◆郷土の友人、菅淳(すがあつし)君から一冊の本を勧められた。『かわいい自分には旅をさせよ』(浅田次郎) 読んでいて、旅に出たくなった。出張ではない純粋な旅行を楽しみたくなった。◆浅田氏は言う。「金だの時間だの手間だのと、旅に出かけぬ理由を思いつくのは簡単だが、よく考えてみれば金は貯めるものではなく使うものであり、時間はあるなしではなく作るものであり、手間を惜しむは怠惰の異名にすぎない。つまり旅に出てはならぬ合理的な理由は、実はなにもないのである。」・・・・・まさにそのとおり。... 続きを読む
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◎2015年10月02日 ---- ボス ◎
- 爽やかな朝
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爆弾低気圧とやらの影響で東京では早朝まで暴風雨が荒れ狂っていた。午前8時を回り、少し落ち着いてきた。私の部屋の窓からは優雅な東京タワーに雲の切れ目から光が射しているのが見える。とてもキレイ。◆火曜日から始まった税務調査は昨日夕方やっと終わった。幾つかの指摘はいただいたものの大きな間違いや注意を受けることはなかった。「概ね、良くまとまってますね」とのお褒めの言葉をいただいた。◆調査初日の火曜日の朝、私は調査官のNさんと名刺を交換したあと会社の概要や近況を説明した。Nさんは穏やかな表情で、私にいろいろなことを質問された。ヘリポートのこと、ヘリコプターのこと、私の生い立ち、独立の経緯など。国税調査官というと「眼光鋭い」という印象があったのだがNさんは全くそういうタイプではなかった。柔和な印象。高圧的ではなく丁寧にこちらの話を聞いてくれる。私はつい饒舌になった。お昼が近づき「それでは午後から詳細な書類関係を見せていただきます。社長さんの同席はここまでで結構です。どうもありがとうございました」とNさんから言われ、私は会議室を出た。◆調査への立ち合いをお願いしている公認会計士のF先生と昼食に出た。F先生いわく「キノシタさん、私はこれまで税務調査に数百回は立ち合っていますが、今回のN調査官は抜群です。少なくとも私が接した調査官の中では間違いなく一番のキレ者です」◆私は驚いた。F先生に言われるまで私はには「N調査官がキレ者」などという感覚はなかったのだ。「そこが彼のすごいところです。丁寧で、おだやかで・・・。それでいて、なにげない風な質問で要所要所を的確に確認してくる。あの人はすごいですよ。恐らく特捜あがりでしょう」◆F先生はN調査官の優秀さを説明してくれた。私とN調査官のやりとりを隣で黙って聴いていただけで「N調査官はキレ者だ!」と読み取るF先生もすごい。F先生は私とピザを食べながら楽しそうに言った。「キノシタさん、なにか悪いことをしていれば、あのN調査官に見つけられる。ごまかすことは難しい、とビクビクするところです。でも当社は木下さんの厳命でズルは一切していません。なにもビクビクすることはないのですよ」と◆入念な検査が3日間続いたあと、昨日夕方、総評が行われた。「概ね、良くまとまってますね」人の良さそうな笑顔でN調査官が言ってくれた。その後、10分間くらいだったろうか、雑談をする時間があった。Nさんの能力の高さは当社の女性スタッフも感じていた。同時に彼の魅力も感じていた。◆「こういう出会いでなかったら、オレとも仲の良い友人になれたのだろうな」そんなことを思っていた。F先生も同じことを考えていた。◆帰り際にNさんが私に言った。「社長、ブログに税務調査のことなんか書かないでくださいよ」・・・何とも言えないチャーミングな笑顔であった。◆東京タワーの向こうに青空が見えてきた。今朝は爽やか。... 続きを読む
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◎2015年09月30日 ---- ボス ◎
- 不義理
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昭和57年に九州大学を卒業した私は前田建設工業(株)の東京支店に勤務することになった。夜行列車で単身上京した。最初の勤務地は練馬区石神井公園の橋梁工事の現場であった。当初は江戸川区にある社員寮から通っていたが、現場が忙しくなるとほとんど毎日仕事場に泊まり込むことになった。当時の作業所にはいわゆる「飯場(はんば)」と呼ばれる宿泊施設があった。六畳間に五人が寝ることも珍しくなかった。◆入社1年目の正月休みの間、私はその作業所に当直勤務を命ぜられていた。大した戦力にならない1年生を現場が休みの間当直させ、正月休みが開けたら代休を取らせるという所長(私の恩人・川嶋氏)の配慮があったのだと思う。その当直期間中に私は扁桃腺炎で高熱を出し寝込んでいた。◆39度3分の高熱に苦しみ、食べるモノもなく一人煎餅布団に寝ていた。元日だったか二日だったか、3年先輩の秋場毅(あきばたけし)さんが車で様子を見に来てくれた。手におせち料理を持っていた。吉祥寺の自宅から通っていた秋場さんは私が正月に一人で当直しているのを可愛そうに思い、母親の作ったおせちをわざわざ持ってきてくれたのだった。もちろん私が寝込んでいることなど知らなかった。布団の中の私を見て「キノシタ!どうした?大丈夫か?」と心配してくれた。私はなんとか布団から這い出て、久しぶりの食事をいただいた。おかげで翌日は熱が38度3分まで下がったことを覚えている。39度3分の熱が38度3分に下がると随分と元気になった気がした。翌日も翌々日も、秋場さんは母親の手料理を持って私を見舞いに来てくれた。若い私は三日後には元気になった。◆私が前田建設工業を辞めてからも秋場さんとの交流は続いた。飲み会があるといえば電話をくれ「オマエも来いよ。みんな会いたがってるよ」と誘ってくれた。私は秋場さんを通じて、お世話になった前田建設工業との繋がりをずっとずっと維持できた。その秋場さんが病に倒れ前田建設工業を辞めたのは10年くらい前だったろうか。週4回の透析を続ける秋場さんは会うたびに痩せ、老けていった。こちらが誘っても「お酒も飲めないし、食事も一緒にできないから」などと言ってやんわりと断られた。歩くこともきついようだった。◆昨日、ある方から秋場さんの死を知らされた。「今年の2月に亡くなられたそうだ」と彼は言った。生涯独身であった秋場さんは一人住まいのアパートでひっそりと亡くなっていた。昨日まで、アパートの大家以外は誰も秋場さんの死を知らなかった。秋場さんには親類縁者もいなかった。◆あのときお母さんの手作りのおせちを私に届けてくれた秋場さんに、前田建設工業との縁を繋ぎ続けてくれた秋場さんに、私はなんの恩返しもできなかった。◆偉そうに「義理・道徳」が最も大切だ、などと言いながら、私はまた大きな不義理を犯してしまったことに気づき、苦しんでいる。◆秋場毅先輩、ありがとうございました。ごめんなさい。安らかに眠ってください。ごめんなさい。... 続きを読む
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◎2015年09月29日 ---- ボス ◎
- 「朝日憎し!」 は みっともない
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「9月27日、広島市にある住宅の浴室内から女性の遺体が見つかった。同日夜、広島県警は、この住宅に住む自称新聞配達員・北野吉和容疑者(52)を死体遺棄容疑で逮捕した。」・・・・そのようにテレビを中心とした各メディアが28日報せた。毎日のように殺人事件が起こる昨今、この程度の事件ではみな驚かなくなった。翌日には別の殺人事件に興味が移る。県立高校に通う孫が祖父・祖母を殺したとして逮捕された。各紙この事件を大きく報じている。そんな中、産経新聞は広島の殺人事件に関し大きなみだしを打った。社会面の最上段である。「浴室に知人女性遺棄 容疑の朝日配達員逮捕」とのみだしである。◆テレビや他の新聞は「自称新聞配達員」として処理しているものを産経はわざわざ「朝日配達員」と書く。大人げない。「朝日記者」なら分かる。問題があるかもしれない。だが容疑者は「販売員」だ。たまたま「朝日」を配っていただけだろう。◆「産経」の「朝日」嫌いは分かる。その主張のある程度は共感もする。だが「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」じゃあるまいし、事件の報道記事としてはあまりにも幼稚。すねた子供のようで情けない。◆近頃、特に産経新聞のスタンスが理解できなくなってきた。筆力の弱さが目立ってきた。少なくとも社会面での事件の報道はもう少し公平、冷静であるべきだと思う。◆この事件は朝日新聞も29日の朝刊で扱っている。「女性殺害ほのめかす供述 ASA従業員の容疑者」とみだしにある。記事の中で「ASA(朝日新聞販売所)」と触れている。記事にする苦しさが伝わってきた。記事にするほどの事件じゃないが「朝日」が係っている以上書かないわけにもいかない。そんな苦しみが理解できる。◆少なくともこの事件の報道に関しては朝日新聞の方がはるかに大人であった。産経新聞はみっともなかった。... 続きを読む
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◎2015年09月29日 ---- ボス ◎
- 税務調査
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爽やかな秋晴れ。昨夜、飲み過ぎなかったため寝起きも悪くなかった。早朝、自宅近所のヨガスタジオへ行った。今朝のレッスンは屋外のウッドデッキで行われた。女性インストラクターにオジサン生徒が3人。オジサンたちは皆カラダが思ったように動かない。それでも頑張って一時間、汗を流した。帰宅し、シャワーを浴び、スーツを選び、久しぶりにネクタイを手にした。「そうだ、今日からネクタイをしよう」・・・ウッドデッキの上でウサイン・ボルトのような恰好をしているときにふと思ったのだ。◆この秋、最初のネクタイをどれにするか、少し迷った。迷った末に、お気に入りのエルメネジルド・ゼニアの赤いネクタイを選んだ。気分が引き締まる。ちょうど今日から我が社へ税務調査が入る。なにも悪いことはしていないが、それでも外部の方にすべてを見られるのは気持ちの良いものではない。緊張もする。「イヤだな」そう思いながらネクタイを締めているときに榎徹(えのきとおる)君のことを思い出した。◆今は大分県東部振興局長という要職にある榎君は佐伯鶴城高校の一年後輩であり、一浪して入学した私と九州大学では同学年になり、私と同じく5年間大学に通って、一緒に卒業した。卒業前の一年間はほぼ毎日一緒に生活していた。私が高校時代に一学年上級であったという理由だけで榎君はいろいろと気を使ってくれた。私は彼を、弟のように感じていた。本当にお世話になった。その榎君は卒業し大分県庁に入ると最初に県税事務所に配属された。就職後、彼と最初に会ったのは多分正月休みで私が実家に帰省したときだったのだろう。榎君はずいぶんと疲れていた。疲れているようではあったが笑顔でいろんな話をしてくれた。◆「キノシタさん、県税事務所っち言うところん仕事はきついでぇ。なんもいいことん無えで。仕事とはいえ、どこに行っても嫌われるしなあ。割に合わん仕事やわあ。笑顔で『いらっしゃい』って迎えられることなんか無えけんなあ」・・・高校時代、大学時代と榎君は人に嫌われることがまったく無かった。誰からも慕われていた榎君にとって、県税事務所の仕事は「嫌われるのも仕事」であり、かなり厳しいものであったようだ。私は榎君に同情した。◆「今日は芝税務署から来られる係官の皆様を笑顔でお出迎えしよう」・・・ネクタイを締めながら榎クンを思い出し、優しい気持ちになった。... 続きを読む
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◎2015年09月25日 ---- ボス ◎
- いくら言ってもわからない
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20年前に一人でラーメン屋を開業した。一人で試行錯誤して美味しい味を見つけ出し、店の場所を探し、不動産屋と交渉した。開業資金がないので綿密な事業計画書を作成し、銀行に持ち込んだ。メニューを決め、店の内装を決め、掃除をし、看板を作り、ビラを撒き、客を待った。開業し、徐々に客は増えたがなかなか利益は上がらない。少し蓄えができるとすべてを新しいレシピ作成に回していた。そうして20年が経った。今では「日本で一番美味しいラーメン」「カラダに害のない、安全な素材のラーメン」「とても安いラーメン」との自信を持っている。◆ラーメン屋は大きくなった。かつては私一人でやっていたことを、多くの部下にやってもらうようにした。世代交代が必要だ。私はまじめな彼らに責任と権限を委譲しようと試みた。◆ラーメン屋は銀座の大きなビルの中に移転した。多くの客が来るだろうと準備した。「レシピを考える係」「実際にラーメンを作る係」「会計係」「銀行担当係」「掃除係」などがそれぞれ、自分の担当部署を一所懸命に頑張った。だが売り上げも利益も当初予想を大きく下回った。ずっと一人でやってきた私には原因は見えている。ずっと我慢していたが、とうとう見かねて注意をした。「いくら美味しいラーメンでも、いくら安全なラーメンでも、いくら安いラーメンでも、いくら都心に店を構えても、いくら大きな店であっても、いくら店がキレイでも、いくら笑顔で接客しても、それだけじゃ客は来ないよ。・・・それだけで客が来ると思っているんじゃないか?」◆「どれだけの通行人が『銀座〇丁目の〇〇ビルの〇階に美味しいラーメン屋がオープンした』と知っているんだ?」・・・・「いくら美味しいラーメンでも、いくら安全なラーメンでも、いくら安いラーメンでも、いくら都心に店を構えても、いくら大きな店であっても、いくら店がキレイでも、いくら笑顔で接客しても・・・・・客が知らなきゃ来ないでしょ!」◆私は「ビラと看板を大至急用意しろ!」と命じた。2か月経った。売り上げも利益も増えない。私は責任者に問い質した。「ビラと看板はどうなったんだ?」・・・・責任者は申し訳なさそうに答えた。「社長から注意されたので、すぐにデザイン会社にビラと看板を発注しました」◆不思議に思って私はさらに問い質した。「そのビラと看板は?」・・・責任者は笑顔で答えた。「ええ、なかなか素敵なデザインのビラと看板がすぐに届きました。社長も見ますか?私のデスクの後ろにおいていますよ」... 続きを読む
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◎2015年09月24日 ---- ブログ ◎
- バカな女社長
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「キノシタさん、読んでみてよ。きっとキノシタさんも腹が立つと思うよ」と知人からある女性社長のブログを紹介された。私はそのブログの存在は知っていた。かつて読んだこともあった。「バカのブログ」と思っていた。知人との話題に上ったので久しぶりにそのブログを覗いてみた。相変わらず自己主張のみが強く、アタマと人柄の悪さばかりが強調される恥ずかしいブログであった。「私は自分勝手で、思い込みの強い、馬鹿な女です」と毎日言っているようなブログであった。◆10年ほど前、彼女は殊勝な顔して私のオフィスに相談にやってきた。「航空事業を始めたい」と言う。私は大手の運航会社の社長のHさんと一緒に彼女の話を聞いた。彼女は既に具体的な計画は持っていた。夢物語のような計画を持っていた。まさに「絵に描いた餅」であった。中学生が聞いても「それは無理!」と即答するような事業計画であった。「この人は会社をやるにはアタマが悪すぎる」と思った。私とHさんは穏やかに「気持ちは理解できるけど、事業としては成立しないでしょ。止めるべきです」と諭した。彼女は我々の注意を聞こうとしない。「採算性がないのは分かっています。始めることができればそれでいいんです。スタートさえできれば2年か3年でIPO(株式公開)できるんです」と言った。なにか裏があるようだった。◆我々の予想とおり彼女の会社は上手くいかなかった。航空局や航空業界の多くに迷惑をかけまくった。私の会社も多大な迷惑を掛けられた。結果、多額の負債を背負って彼女の会社は倒産した。彼女に20億円を貸していた小さな金融機関もそれが原因で倒産することになった。回りのみんなに迷惑をかけての倒産だったが「すみません」も「ごめんなさい」も言ってもらった者を私は知らない。航空局では彼女の「やっかいな言動」はいまだに語り草になっていると聞いた。◆直近の彼女のブログで子供の教育に触れていた。彼女は書く。「・・・人に迷惑をかけてはいけない。特に家族、親。」・・・自分の子供に対して「特にお母さんには迷惑をかけてはいけないのよ!」と言っているのだ。この女性のすべてを物語っている。人の注意を聞かず会社を始め、倒産し回りの方々へ大変な迷惑をかけ、苦労はしたのだろうが、まったく成長はしていない。◆「人に迷惑をかけてはいけない。どうしても逃れられないときはその迷惑はお母さんにかけなさい。他人様には決して決して迷惑をかけてはいけませんよ」と教育され育った私には、彼女の考えは全く受け入れられないものである。... 続きを読む
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◎2015年09月18日 ---- ボス ◎
- 野党の負け!
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「健康診断、特に人間ドックなどは受診しないほうが良い」と強く主張している医学者は意外と多い。◆レントゲン撮影では放射線が使わる。胃のバリウム検査や、CT検査などでも放射線が使われる。私が1年に1回受診している「PET検査」ではなんと放射性同位元素を注射器で体内に注入する。いわゆる被ばく状態になるわけで「注射後24時間は小さなお子様には近づかないでください」と注意される。PET検査を受診した者が翌日福島の除染作業所に入ろうとしたらガイガーカウンターの針が振り切って大騒ぎになった、との話を聞いたこともある。「健康診断や人間ドックを繰り返すことにより、健康であった人がカラダを壊す」と主張する医学者の理論も理解できる。◆「そうではない。検診によって体内に摂取する放射能はとても微量でカラダへの影響はほとんどない。カラダを壊すというリスクよりも癌(がん)などの重病を早期に発見できるメリットの方が大きい」と反論する医学者も多い。こちらの意見が大勢を占めている。◆私は双方の意見を聞き、あとは自分で判断した。週刊誌上でたまに双方の医学者が議論を交わすが自分が支持する意見と違うほうを「殺人者!」などとののしる者はいない。なぜならどちらの主張も「国民がより健康でいられるために」との思いで研究して得られたものだから。◆昨夜、みっともない国会中継を観た国民は多い。情けない国会議員ばかり。議論になっていない。◆私は今回の「安全保障関連法案」に関しては、これを「戦争法案」などと名付け、アタマの悪い学生や感情的な主婦層を味方に付けようとした野党の負けと見た。◆本来、国民は双方の主張を冷静に聴き、どちらの主張がより戦争になる危険性が小さいのか、万一戦争になった場合にどちらの方が犠牲が小さくて済むのか、を自分のアタマで考え、自分はどちらに着くのかをジャッジすべきであった。ところが一部野党議員が「戦争法案」と名付けたことでバカな学生と感情的な主婦が「戦争反対」と言い出した。議論にならない。野党はそれを受けて調子に乗ってさらに「戦争法案反対」と繰り返した。◆相手の考えを聞こうとしない、国民に冷静に長所短所を説明することができない、今の国会議員とほとんどすべてのマスコミ・・・「こんなもの要らない」という気持ちになった。
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◎2015年09月16日 ---- ボス ◎
- 転職
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忙しい。人手が足りない。人材が十分でないので3年後、5年後のイメージがなかなか具体的にならない。そこで当社は常に中途採用者を募集している。私も月に2~3人を面接することになる。転職を希望して当社の門を叩いてくるのは30歳代前半の方が多い。現在勤めている会社に不満があったり不安があったり。そんな彼らに私は決まって同じことをアドバイスする。「過去と途切れてはダメ。過去を捨ててはダメ。」と。◆昭和63年、私は新卒で採用され6年間お世話になった前田建設工業を辞めた。随分と身勝手な辞め方だった。もちろん私なりにいろいろと事情もあり、苦しみもした。1年間以上悩み、決断した転職であった。後に副社長にまでなる当時の私の上司、川嶋課長(当時)には特に強く慰留された。それでも私の決意は翻らなかった。◆九州大学出身の土木技術者。前田建設は新卒の私を期待を込めて厳しく指導してくれた。橋梁・護岸・上下水道・共同溝・道路・・・いわゆる「都市土木」と言われるすべての工事を経験させた。頭でっかちの、いいかげんな学生が、6年間鍛えられやっと一人前になろうとするときに彼が「辞める」と言い出したのだ。上司としても、会社としても面白いはずがない。◆実は当時の私には「上司や会社に迷惑をかける」という意識が希薄だったのかもしれない。それよりも「できる限りのことは一所懸命にやった。身も心も前田建設工業に捧げた6年間だった」との意識が強かったように思う。今思うとまったくの世間知らずであった。◆誰にアドバイスを受けたわけではないのだが、ここからの私が偉かった。上司の慰留も聞かず自分勝手に辞めておきながら、そういうことは全く気にせず、上司や先輩や同僚とコンタクトを取り続けたのだ。そんな私に対して前田建設工業の皆さんは、飲み会の予定が決まると「オマエも来ない?」と誘ってくれた。おかげで私は新卒から6年間を必死に働いた前田建設工業での経験や人脈を「過去のもの」と切り捨てることなく「私の大切な大切な宝物」にすることができた。腹の中に計算があったわけではない。ただせっかく出会った「魅力的な人」「優しい人」「仕事のできる人」とは繋がっていたい、というような感情があったのだろう。◆そしてその「私の大切な大切な宝物」は数十年後、何十倍、何百倍にも大きな宝物になった。◆私は身を持って体験したことを、いま居る会社を辞めて「御社にお世話になりたい」と頭を下げる若者たちに必ず話している。私のアドバイスが無ければ、彼らはきっと今お世話になっている会社や先輩との縁を切ってしまいそうだから。... 続きを読む
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